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「川崎球場」跡地で村田兆治さん追悼特別展 献花台も設置され別れ惜しむ

「川崎球場」の跡地にある「富士通スタジアム川崎」で村田兆治さんの追悼特別展(撮影=加藤恵三)

「川崎球場」の跡地にある「富士通スタジアム川崎」で村田兆治さんの追悼特別展(撮影=加藤恵三)

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 元プロ野球選手の村田兆治(むらた・ちょうじ)さんが所属していたロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)がホームにしていた「川崎球場」の跡地にある「富士通スタジアム川崎」で、追悼特別展が開催され献花台も設置された。

多くの選手を輝かせたナイター用照明灯

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 富士通スタジアム川崎を管理する川崎フロンターレの田中育郎支配人は、「11日には300人、12日に500人、今日13日には午前中で既に600人のファンが訪れて、村田さんとの別れを惜しんだ。ここ川崎球場で活躍し川崎の人を勇気づけた村田兆治さん。多くの人に慕われていた」と話す。

 元千葉ロッテマリーンズ・スタジアム部長の横山健一さんは「私はロッテに入社する前はロッテの一ファンとして村田さんのすごさを見てきた。球団に就職してから村田さんは、川崎とロッテのレジェンドだと確信するようになった。その生きざまに感動すら覚えた」と話す。

 ロッテオリオンズは、1970(昭和45)年にリーグ優勝(10年ぶり3回目)をするも、1973(昭和48)年から1977(昭和52)年にかけて、本拠地としてのグラウンド持つことができず、仙台、後楽園(現・東京ドーム)、神宮、川崎などの球場を転々としながらゲームを行ってきた。その厳しい中でも村田選手は、1974(昭和49)年に12勝を挙げ2度目の2桁勝利と日本シリーズ(中日に4勝2敗)での胴上げ投手になり、1976(昭和51)年には21勝11敗・防御率1.82で最優秀防御率のタイトルを手にしている。この年の奪三振202はリーグ最多をマークした。

 1978(昭和53)年より、川崎球場をホームグランドにしてからも、村田選手の活躍は続く。1978年に通算100勝。翌1979年には17勝で4年連続2桁勝利。1981(昭和56)年には19勝を挙げて活躍していた。

 そして1983(昭和58)年9月にアメリカで右肘じん帯再建手術(トミー・ジョン手術)を受けるも、1985年4月14日の西武とのゲームで復活。155球で完投した。それ以後、中6日でのローテーションとなり「サンデー兆治」と呼ばれるようになった。横山さんは「村田さんのカムバック後の活躍を見に日曜日ごとに川崎球場がにぎわった」と当時を振り返る。「そして1990年に引退。翌年、ロッテは川崎球場から千葉マリンスタジアムに移りチーム名も千葉ロッテマリーンズに変更。村田さんと川崎球場。なにか結ばれている感じがする」と話す。

 田中さんも「3年前にイベントでお声がけをしたときに最初は村田さんから断られた。『変わってしまった川崎球場には行きたくない』と。でも私は、スコアボードやフェンスが残っていること。当時のナイター用の照明灯は、今も光り続けプレーする人々を明るく照らしていることを話して説得し来ていただいた」と振りかえる。

 2023年1月10日に、川崎球場時代から使用していた残りの照明灯2基の建て替え工事が始まる。1月7日には、別れを告げるイベント「さよなら照明灯イベント」を予定しており田中さんは「できれば村田さんをお呼びする計画を立てていた。とても残念」と話す。

 横山さんは「川崎球場があったことを忘れないでほしい。村田選手など多くの選手が人生をかけてプレイした球場だから」と願いを込める。今でも「川崎球場」と書かれた道路案内プレートが富士見通り「富士通スタジアム川崎」入り口(カルッツかわさき前)に残っておりそれを見に来る人も多い。「これを取り除かないで」の願いを込めて。

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